歴 史:
永禄2(1559)年に、13代足利義輝が管領斯波氏の屋敷に城を建てた。
永禄8(1565)年に、三好三人衆の松永久秀が、義輝を討ち取り、城は焼失した。
辞世の句 五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ雲の上まで
降りしきる五月雨は、はかなく消える露なのか、それとも私の無念の涙なのだろうか。
ほととぎすよ、私が死んだあとも、私の名を雲の上まで高く伝えておくれ。
永禄13(1570)年に、織田信長が14代義昭のために拡張再建したが、天正4(1573)年に、義昭が畿内から追放され、二条御所が破壊される。


争 乱:
織田信長 VS 足利義昭
どんなことか:
織田信長は、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛し、将軍職に就けることで室町幕府の再興を実現した。
義昭は信長の軍事力に依存する形で政権を維持していたが、将軍としての実権の回復、信長の支配からの自立を図った。
一方信長は義昭を名目的な存在、自らが政治の主導権を握ろうとしたため、両者の対立は深まった。
義昭は朝倉氏や浅井氏、石山本願寺などと反信長勢力を結集「信長包囲網」を形成したが、信長は各個に撃破し、次第に優位に立ち、義昭は挙兵するも敗れ、両者の関係は決定的に決裂した。
結果:
天正4(1573)年に信長は義昭を京都から追放し、室町幕府は事実上滅亡した。信長は中央政権を掌握し、新たな権力構造を築く契機となった。


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